映画「emergo Apartment 143」 エメルゴアパートメント143 解説と感想

●ヘルザーの理解

結局のところヘルザーは幽霊について理解できていないというのがこの映画の結末だ。ヘルザーが解決したのは家族の問題だけであって、幽霊やポルターガイストなどの現象を解明したわけではないことがラストのお約束でわかる。幽霊が一体なんなのか、どうやれば解決できるのかは結局、自然法則を信じ、また自然法則を超えることはできない、という人間のレベルでは分かりえない世界がまだまだあるというのがこのラストの意味するところだろう。それであっても幽霊も元は人間だったわけで、まったく話が通じないというわけではなさそうだ。今回はケイトリンという少女の味方か悪利用したイタズラ者かはわからないが、どちらにせよ少女の代弁をしようとしてくれたのは見て取れる。日本でもそうだが、幽霊は未練や恨みが根源とされている節があって、人間社会には戻れないが、なにかを示唆しようとするような行動をする。もし幽霊がいて、話すことができたらまずは彼らの話をとことん耳を傾けて聞いてみたいと私は思う。もしかすると彼らもまた非常に小さな身近なことで悩んでいるかもしれないからだ。その手助けをすることができたらおそらく彼らから怪奇現象の正体を教えてくれそうな気がしているが、悠長すぎるかな、とも思ったりする。

もっとも打撃を受け、屈辱と喪失を味わったのは父親のアランだ。だが彼は子供たちを第一に考えていて、どうにもならない中でなんとかしてでも乗り切ろうと努力している。そしてラストには自らの力で娘を助ける、というところから言葉にできない思いを伝えることにいたるのである。そこからも分かるとおり、この映画の見所は幽霊を省いてしまって、父親の愛、ヘルザーの優しさ、思春期の思い、現代社会と非日常的現象の根源は人の心が成すものであること、などの非常に怖いことへ視点を変えれば、ホラーよりももっとスリルを味わえるだろう。ただのホラー映画として観てしまうと、逃すことは大きいのだ。

※この映画を読み解く鍵は人間の心そのものだと思う。ホラー映画というだけの視点では捉えられないなにかがある。幽霊も人間の魂とか心の名残だとすれば、やはりことの根源は人の心だ。もし人の心を解明するときがくれば、おそらくそれは幽霊の解明にもなるかもしれない。

●謎だらけの母親の心理

母親だったシンシア・ホワイトは小学校の教師をしていて、幸せな家庭を築いていたはずなのに、なぜか淫乱になり、家庭も自分自身をもぶち壊してしまった。どんなに考えを巡らせても謎だらけだが、彼女に幽霊が取りついていたらと考えると少しは納得がいきそうだ。図としてはまずシンシアに幽霊が取りつき、彼女が死んだあとにケイトリンが取りつかれた、というような図になる。しかし、シンシアが生きていたころにはポルターガイストは起こってないし、怪奇現象は母親の奇行だけということになってしまう。ケイトリンの思春期がなにかを助長したりしたかもしれないが、まったくこのあたりの『幽霊の移動』に関しては解読ができない。
ヘルザーはストーリーの中で、幽霊を否定していながらも説明のつかないものだとも言っている。この言葉はなんの解決をももたらしてはくれないが、あるヒントを与えてくれている。それは、説明のつかないことは幽霊だけではなく人間の心のことにも当てはまる、ということだ。シンシアは病気でもなく取りつかれたのでもなく、心を支えているなにかのタガが外れてしまったと言うだけでもいいのかもしれない。心とは幽霊よりももっと不可解で現れては消えていく実態のない最も恐ろしいものだからだ。しかし、なぜ母親シンシアは荒れてしまったのだろうか。博士によれば統合失調症であるとの見解だったが、幽霊か悪魔にとりつかれてしまったとの見方もできるようにラストは語っている。

ちなみに、娘が原因であれば誰もいなくなった部屋でポルターガイストが起こるというおかしなラストになっている。ではやはり、一連の現象は場所にとりつく幽霊の仕業だったのだろうか。あるいはもっと定義されていない現象だったりするのかもしれない。
ヒントがあるとすれば乗っ取られたケイトリンから男の声で「我々は多数だ。」と繰り返し発せられたことだ。
このヒントをヒントとしてとらえるまえにもう一度この映画の中において定義された怪奇現象を整理してみよう。

・博士によれば、幽霊は場所を動けないはずだが怪奇現象はホワイト一家についてきた。なので怪奇現象の原因は幽霊ではないはずだが…。

・幽霊ではないということから、ポルターガイストと仮定したが、ならばなぜケイトリンが運び出されたあとには存在できないはずのポルターガイストが場所に残っていられたのか。

・母親に起因する現象だったのならば、なぜケイトリンにとりついたのか。母親の幽霊だとしてもなぜ移動ができるのか。幽霊だかわからないがそれらしき像を見る限り、前半に出てくる母親の写っている写真立ての顔とよく似ているので母親ではないとも言い切れない。一体何者なのかはわからないとしても女性であることは見てとれる。

・ケイトリンから発せられた声は男性であって女性ではない。母親が男の声を出さない限りは少なくとも二人以上の複数いることになる。しかも男の声をは「シンシアか?」という問いにたいして「シンシア?」としらを切った。

以上を踏まえると、母親の幽霊もいれば男もいて、ケイトリンのポルターガイストもあってと、幽霊屋敷と命名をしてもいいだろう。
もうこうなってくると定義のできない何者でもないものたちがホワイト一家を襲ったと思うしかない。しかし、ぞっとした心を放置する前に「我々は大勢だ」と発せられた言葉を額面通りに捕らえてみるとどうだろう。幽霊もポルターガイストも亡霊もなにもかもいるんだ、と言っているのならば辻褄が合わないか。定義ができないものほど人に不安をもたらすものはない。恐れとは我々人間の内側にある無知からくるものなのだ。恐れを取り払うには「知る」か「定義づけてしまう」かだ。今夜もぐっすりと眠れるように、私なりにこの不可解な複数の怪奇現象を定義づけてしまうとするか。

不特定多数の怪奇現象=「エメルゴ」

もしあなたが定義できない、およそ複数のミクスドな怪奇現象を味わった場合、とりあえず「エメルゴ」にあったとするのはどうだろうか?

「我々は大勢だ」
なんとも恐ろしい言葉だ。大勢というのは一体どれくらいの数を指しているのか。十か。いや五十か。数がわかったところでなんのなぐさめにもならない。そもそも我々には見ることができないのだから。
むしろ映画の製作側がこの一言で何でもかんでも詰め込めるようにしてしまえたという恐ろしい悪魔の一語として、幽霊の軍団を想像するのはもうやめよう。

※同ロドリゴ・コルテス監督作品「レッド・ライト」の考察もしてみました。

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