レッドライトというタイトル
レッドライト。これは何を指すタイトルなのか、もう一度立ち戻ってみよう。
単に警告灯のことを言っているのだろうか。赤い光り。そう言われて思い出すのは赤信号だけか?車のブレーキランプ。サイレン。消火栓。病院。みんな救急で警戒が必要だ。しかしマーガレットが講義中に発言した、
「写真が現像できるほどの暗さがあればいいのです」
と言ったのを覚えていないか。現像室。あれは真っ赤な部屋だ。薄暗く、赤い光だけに染められた世界。現像室は世界に視覚的まやかしを誕生させた記念すべき部屋だ。そこから写真はもちろん映像という、デマカセ情報が蔓延し始めたのだ。それ以前のデマカセは人伝いだったが、もはや論より証拠、トリック撮影された写真ひとつで人々は自分で確認することを忘れてしまった。また詐欺師たちはたったの写真一枚で巨万の富を手に入れることが出来るようになったのだ。
オープニングをもう一度見てもらいたい。
行き交うヘッドライトの中にブレーキランプが混じるような、赤い光り。瞳がクローズアップされた目。磔刑を受けるイエス・キリスト像、心霊写真。占星術、手品か何かの道具の設計図、超能力や魔術のシンボル、UFO、最後は砂嵐のテレビ。
どうだろう、これらになにか胡散臭いものを感じないだろうか。特に最後のテレビはまやかしの代表であるし、視覚に騙されやすいものばかりが列挙されている。
この映画でいう視点というのは、騙される側の視点と騙す側の視点のことだ。世の中にはこれら二つの視点が複雑に交差している。
騙される側に強い弱いはなく、誰もが騙される可能性を持っている。
一方、騙す側というのは常に都合のいい立場に回り込んで、利益を得る。利益がないのに、騙すことはない。狼が来たと嘘をついた少年にはいたずらという無形の利益があったが、そんなものは稀で、羊の皮を被ったペテン師は必ず利益のために働くものだ。ペテン師という専門職だけじゃない。友人との間、恋人との間、会社の人間関係、企業と企業、社会の構造そのもの、国と国。この世ではどんな場面でも騙し合いが行われつづけている。このストーリーに引き合いにされているマジックショーはペテンの代表であるが、こうしてみると人の騙し合いとしては優しいほうだ。利益は観客から徴収して、夢を売った形で英雄化する。そこになんの罪があるのか。あらゆる芸能、テレビだって、ときにはまやかしを行うし、それがバレないまま済んでいることも考えると、どれも信じられたものじゃない。エンターテイメントとして許されたペテンはもはや公認であり、それを今さら咎めるのさえ時代遅れな気もしてくる。
他方で、騙されてもいない、騙してもいない、と、懐疑的な科学者になったところで、目にする全てのペテンを解明できなければそれもまたただのご都合主義になってしまう。懐疑主義者とて、都合の悪いことには蓋をして、相手のミスをつつくだけだ。これはペテンの変型でもある。
一体どうすればいいのだろう。
だが、レッドライトには、そんな騙し合いが横行し真実がなんであるかが失われたこの世界に明光を与えるようなヒントが盛られている。そのヒントとは、繰り返しになるが、「正しい視点」であり「視覚こそがペテンから身を防ぐ盾を奪ってしまっている」という警鐘である。このことは、再考すれば、バックリーの台詞からもオープニングのモンタージュの羅列からも汲み取れるはずだ。
「視点を変えろ、視覚に騙されるな!自身で確かめろ」
と、映画の副題にしたっていいくらいだと個人的には思うが、味気ないか。
正しい視点
視点こそがまやかしの原初であり、視覚こそが人々の最大の弱点でもある。その視覚と視点をねじ曲げて人々を翻弄しようとしているのがサイモン・シルバーである。マーガレットのいうレッドライトとは、こういったまやかしに放つべき警告灯だ。
ここからは、「正しい視点」とは何か、と、「赤い警告」の二つを軸に掘り下げていってみよう。
当然のごとく、バックリーとマーガレットの会話には重要なヒントが隠されているが、タネ明かしをされていない観客には謎めいた話や途切れた話ばかりだ。だが辛抱強く、雑念や邪心に負けないように注意深く会話を拾っていこう。
二つ目の現場で、マーガレットとバックリーはまたもやインチキな家族のために遠出することになる。
児童虐待ものの自動書記を謳う一家の相手をしている間、マーガレットは一言も出せなかった。
自動書記はかつてティンゲリーのキネティックアートの中で試みられた。日本ではティンゲリーの作品は単なる機械仕掛けの芸術品に思われるだけかも知れないが、西洋では聖霊の存在を彷彿させるものがあるだろう。だからこそあのガラクタと紙一重な機械仕掛けのオモチャが、アートという西洋式の世界では評価されるのだ。西洋式の世界で活躍を望むなら、絶対に外せないのがキリスト教であり、その影響を受けている人間たちを相手にしなければならない。
ロドリゴ・コルテス監督はこのキリスト教がある世界の大前提にマッチさせ、その土台をひっくり返そうとしつつ、また土台を広げるようなストーリーを作っているのだ。だからこそ面白いし、賛否が別れて、私はのめり込める。この事には最後にもう一度触れたい。
マーガレットは車の中で、遠出したのにやかましい落書きだけしか収穫はなかった、と呟いたバックリーに、
「私だったらこんなことにはついていけない、バカみたいなことを続けているみたいだし。ねえ、どこからこんなことに対するあなたの活力は沸き起こってくるの?」
と問うがバックリーは、もちろん濁す。
もしまともに答えていたら、
「僕の超能力は嘘だって証明してください、そして僕を普通の人間だと認めてください」
といったものだろうか。とにかくバックリーには言えないことがあって、
「好きだからですよ」
と答えるだけだった。
デイビッド
マーガレットには植物人間となってしまった息子のデイビッドがいる。入院先の病院にバックリーと訪れて次のような話を独り言のように始める。
「幽霊を信じる人は死後の世界を信じているからよ。私も信じられたらと思うときがある。でもまだ学者としての信念を捨てて、信じることはまだできない。もしこの子が起きて鏡をに写る自分や私を見ても、一体誰だかわからないかもしれない。
でももし一瞬でもそう思えたら、生命維持装置を切って、逝かせてあげられたらと思う」
この台詞の意味は文字どおりの意味合いだが、大事なところなのでバラしてみたい。
死後を信じるとは天の国があると信じることとほぼ同義だ。イエスの出現で天の国は近づいた、となる聖書の言葉がある。イエス以降、天国はある、という意味だ。
「天の国」というのは日本的な「三途の川」ではなくて、主に「神の国」を指す。キリストが昇天した場所とも言える。天国からイエス・キリストが再臨し、最後の審判後に建てられる王国のことだとか。そこで人々は救われ、死者も復活するというのだ。イエス・キリストと言おうか神ヤハウェを信じる者は、その王国で復活する、というわけだね。しかし具体的に「天の国」というものはこうですよああですよとは言ってくれてないので、ご想像にお任せしますが、天の国というのはイエスと一緒に地上に来ていたので、イエス自身が「天の国」とも言えたりと、なかなか曖昧なもんなんです。
これを踏まえて、マーガレットの台詞は次のように捉えることができないだろうか。
「ミラクルさえ目の前で起きてくれれば、天の国が存在することを信じて、この子を逝かせてあげられるのに」
逆に
「ミラクルが起こらないなら、結局は死後なども一切ない、だからこの子を逝かせるというのは、本当のお別れになってしまう」
とも言える。
人物設定とシナリオ構築の巧みさがここにあって、マーガレットの葛藤がうまく筋立てと絡められている。マーガレットは科学者と母親との間で苦しんでいるのだ。信仰により天の国を信じられたら、この科学者ママはどんなに楽だったろうか。天の国で再び息子に会うことができ、その家で永遠の祝福を二人で受けられるのであれば、いつだってあの世に逝ったっていい、怖くはない。そんなことさえも信仰は覚悟をさせる。
だが科学者のマーガレットは天の国どころか、死後の世界だなんていう馬鹿げた妄想を信じてはいない。いや、信じなくなってしまった。もし神がいるのならば、なぜ、どんな罪で幼い子供の体をこんな目に合わせるのか、そんな疑念でも働いたのだろうか、マーガレットは信仰を途中でやめてしまっているのだ。
マーガレットにとって、超常現象は否定すべき対象ではない。超常現象はあってほしい対象である。息子を逝かせてやれる確実な証拠が欲しいのだ。しかしありとあらゆる超常現象はまやかしで、納得ができない。マーガレットはまやかしをあばきながらも、本物の救世主を探してもいたのだ。
最後にマーガレットは超常現象を訴える輩どもには二つのタイプがあると付け加える。
「宇宙人が宿っていると本当に信じ込んでいるようなタイプと、騙してもバレやしないだろうと思い込んでいるタイプのどちらか。しかしどちらも間違いよ」
そう、シルバーはこのあとのストーリーで、その両方になっていくのだ。
会場周辺で
あるまやかしがまた行われる
会場の近くにマーガレットとバックリーにオーエンを加えたチームは身構えている。インチキを暴く素材を探しているのだ。 よく見ればなにやらいかがわしい連中がうろうろしている。
カメラを構えたマーガレットは、オーエンの質問に答える。
「レッドライト。この場にそぐわないもの」
そうだ。視点を変えれば、賑やかな景色も胡散臭いものへと変貌してしまうのだ。
視点を変えれば今、あなたがはまりこんでいる宗教もただの胡散臭いペテンだと思えてくるかもしれない。
そんなことはないか。自分を正当化したいがために疑うこともままならばいだろうから。そう、この自分を守るときの視点。これが間違った視点にもっとも近い視点なのだ。
マーガレットがバックリーにオーエンをチームにいれてはどうかと振ったときに、若くない? と聞きただしたが、オーエンにも若くない?と再び訪ねるシーンがある。なにかのオマージュなんだろうか。変わったコメディリリーフなんだろうか。そのまま捉えるとマーガレットは焼きもちを妬いているように見える。オーエンに訪ねるときには、バックリーの写真を撮りまくっているし。それにしては助手をぞんざいに扱っているなあという印象もあるしで、なんだかわからない。もしかすると、マーガレットはバックリーの母親なんじゃないか、だとしたら親心からこんな台詞もありか、などとも考えたのだけれども、どうやらそんなオチはなかったようだし、なんとも不可解なところなのだ。
初めまして。
映画レッド・ライトの考察楽しく読ませていただきました。
映画は全般的に好きなのですが、特に本作のような作品が大好きでDVDを探しては何度も見返しています。
ですが、鈍感な為二度三度見てもなかなか理解できない事が多くもやもやする事ばかりでした、
以前、大好きなD.リンチ監督のマルホランド・ドライブを見た後、どうしても理解に苦しんでいた時
たまたま、こちらのような考察を読み、それから映画の楽しみが何倍も膨れ上がりました。
それからはドニー・ダーコやメメント、オープン・ユア・アイズなど何度も見返しては自分なりに推理して楽しんでいます。
まだ見ていない傑作がたくさんありますので、これからも色々と紹介していただけたらと思います。
コメントありがとうございます。
映画って本当にいいですよね。
この映画は表面的なトリックで観衆を翻弄しているんですが、多重レイヤーな伏線があるように見せていて、実は解説したようにシンプルな幹に枝葉がついたものだったりしますね。
その罠にかかって推理していくのはとても楽しかったです。
私も鈍感です。なので何度も見返します。この何度も見返したい、っていう映画に出会うと興奮しますね。そうするとわからなかったことが見えてくる。疑問が見えてきたらメモして、昔の映画に似たシーンがなかったかと思い巡らせてと、やっているととっぷりと日がくれていきます。
マルホランド・ドライブではどこかの精神科医の人の解説が好きでしたね。あれには影響受けています。マルホランド・ドライブはあの解説で精神的な病み付きにさせられましたよ。
あまり話題ではないですが、ロドリゴ・コルテス監督繋がりで「emergo apartment 143」の映画も傑作ですので、是非です。
[…] ※同ロドリゴ・コルテス監督作品「レッド・ライト」の考察もしてみました。 […]