映画解説 クロニクル

破壊力

漫画アキラでは、核爆発を彷彿させるような爆発が描写される。その爆発は子供による爆発という設定なのだが、その設定自体もすでに破壊的だ。大抵は小さい力しか持てなかったものに、大きな力を与えるのが物語のセオリーであろうが、子供に核爆弾を持たせるような力のギャップは、メーターを振り切ってしまっている。

クロニクルでは破壊力の描写に、日本のアニメで使われる手法が盛り込まれている。力があたりに充満していることを示す、小石が宙に上がっていく現象などは日本の漫画やアニメではお馴染みだ。この描写の先祖はどこにあるかわからないが、やはりドラゴンボールっからメジャーになった、というのが印象か。オーラによってか力で磁場が変化するのかわからないが、とにかく力がみなぎり、しかも得たいの知れない力に変換されているのが伝わってくる強力な表現手法でもある。たぶん発電所とかで髪の毛が逆立つ現象などからヒントが得られたものだと思うが、この辺りの起源など、どなたかご存じの方がいればコメントください。
クロニクルではこの「逆立ち現象」というか、力を可視化するための手法はふんだんに使われている。

飛ぶときのスタイルはドラゴンボールで見ることが出きる。まさか万歳をしてスーパーマンスタイルで飛んだらイマドキじゃない。どちらかというと頭にタケコプターをつけ始めたころのドラえもんスタイルとの言えるだろうか。あのイージング(摩擦係数のかかった動きね)のかかった浮揚をしながら空中で会議するのは非常に楽しそうだ。

建物を破壊していく描写もいままでのアメリカ映画にはないものがある。これは全くの感覚でしかないのだが、超人の破壊力にはエフェクトがプラスされていた。稲光とかオーラのようなものか。パワーを可視化というか説明的な描写になりがちだった。だがクロニクルではそういったエフェクトはない。あくまでも「力」そのものであって、説明的な描写ではなくなっている。大友克洋(アキラの原作者)が残像に頼らず、筋肉の描写により動きを表現したことと重なる。これは日本的な描写といっても言い過ぎではないと思う。実は西洋美術史を見ればこんな筋肉の描写は何千年も昔から行われてきたことなのだが、漫画という時間軸を持った二次元表現の中では残像やエフェクトなどに頼り過ぎてきた傾向があり、漫画に美術的なデッサンを持ち込んでそれらを払拭しようとしたのだろう。

クロニクルはそういった意味でも新しいスペクタクル感覚を映画に持ち込めた成功例だといえるだろう。ただそれは日本アニメの影響があると私は感じた。

クロニクルのラスト、つまり市街戦で駆使されていたライティングについても触れないわけにはいかない。ヘリのサーチライトを効果的に使っていた。アキラでは大佐の乗るヘリが街中を容赦なく照らしまくる。原作の漫画ではもちろん白黒二色の表現だが、実に臨場感のある表現がなされている。クロニクルでは宙に浮くアンドリューとマットがヘリのサーチライトに照らし出される。この演出は新鮮だ。また、アンドリューがこのとき人々から取り上げたスマートフォンで自撮りしまくるのだが、うだつのあがらないキャラクターの内面をうまく表現している。

なんかこう、アメリカ映画っていうのはもっとこういう繊細さに欠けたものなんだよなあ、それが日本の十八番を取り入れちゃったらもう敵わないね。

つづく

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